「あきらめ」というハードル下げ

20150307211733

「あきらめ」って言葉には、なんかネガティブなイメージがある。

あきらめるな!とか Never give up! ってすごい前向きな感じするもんね。

でもそれって時にはしんどいなぁって思う。

よーく考えたら自分ではどーしようもないことなら特に。

例えば、

全く考え方の違う誰かに、自分の気持ちをわかってもらうとか。
 (例えばパグ好きの人にゴールデンレトリーバーがどんなに可愛いか伝えるなど)
本心では、もぅやりたくないのに、周りに上を目指せ!みたいに言われるとか。
 (例えばこの仕事もう飽きたんだけど妙に周りの評価がよくてやめれないとか)
トラブルメーカーな人を改善(?)するとか。
 (例えばめんどくさい仕切り屋さんを黙らせるとか)
仲の悪い両親を仲良くさせるとか。
 (心温まる映画では子供が奮闘してハッピーエンドになる)
子供に「できる」子になってほしいとか。
 (決まり言葉は「あなたのためを思って言っている」)
あの人にできてるんだからあなたもできるはず、みたいな根拠で励まされるとか。
 (いや、そもそも素材が違うから無…)

それ、もう、あきらめてみる?

どうする?

って自分に問いかけてみると、結構いるんです。「え~でも…」って悪あがきしている自分が。

場合によっては、逆に「やめていい?ほんとに?」ってすっと軽くなる自分もいる。

すくなくとも、やめた時のことを想像して、すっと軽くなるんなら、そっちに行く方向に向くのが正解と思う。

ハードルの中身が、期待なのか、希望なのか。

手がとどくものなのか、幻想なのか。

よーく考えてみたらいいと思う。

「やりたい!」「きっとやれる!」と思うのが希望で、
「やらなきゃ」と思うのが期待、と思うんだけど違うかな。

ハードルの正体が「期待」だとしんどい気がする。

自分に対する、自分からの期待。
自分に対する、周りからの期待。

あと、理想だと思っていたことが幻想だった場合は、いつまでたっても手が届かないってことに気づきたい。

上に書いた「映画ではハッピーエンド」ってやつね。

わたしがこの道(セラピスト)に進むきっかけになった、あるヒーラーさんが言ってたことなんだけど。(以下要点を↓)
————–

同性愛のクライアントさんに「誰もこの気持をわかってくれない」と相談されたが、
その人は「このヒーラーさんならきっとわかってくれる」と思っていたみたいだ。
だけどわたしは、異性が好きだし、やっぱりその人の気持ちはわからない。
肉好きの人は、野菜好きの人の気持ちがわからないんですよ。
だから、はっきり「わからない」と言った。
そのうえで、“気持ちをわかってくれる人” を探すのは、幻想を追いかけているようなものだと伝えました。
そして「同性が好きというあなたの気持ちはわからないけれど、パートナーを見つけるのが難しいという気持ちはわかる」とその人に言ったら、その人はずいぶん楽になったみたいでした。
————–

このヒーラーさんが言いたいのは、きっとこういうことだと思う。

映画やテレビドラマ、そしてコマーシャルなんかで、
わたしたちは、絵に描いたような「理想の関係」をよーく目にするけど、
それは、みんなの理想像をいいとこどりした幻想に過ぎなくて、
理想に見える人たちも、現実ではいろいろあるんだよと。
だから、表面だけを見て、実在しない理想を求めると辛くなるんだよって。

わたしにはそう思えた。

だから、情熱のないところにあるハードルは、もう挑戦するのやめちゃって、ひっこめちゃう(あきらめる )のもアリなんじゃないかなぁ。

「奇跡のリンゴ」 の木村さんみたいに、情熱のあるところにあるものは、それとは全く違うものだけれど。

「あきらめたくない」と思った時、
そこにあるのは情熱なのか執着なのか。

情熱じゃないものは、もう(一時的にでも)ハードル下げちゃったらいいと思う。
他人の価値観と自分の価値観の区別がつかない人は、そこ混同するかもしれないな。
このことについてはまた考えて書きます。

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