「正しさ」でジャッジすることの厄介さ

こんばんわ。HAPPY道場さちこばです。

前回、未完了をなくすと、エネルギーが軽くなって行動が早くなるよ、という記事を書きました。

「1日1コ未完了を完了させる」を目標に、毎日ひとつ未完了を完了するようにしてるのですが、
昨日やったのがコレ↓

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この、首ちょんぱになっていたキッチンスケールをくっつけました☆

この、とれた首が、いっつもキッチンの片隅で私を見ていたのね…
修理しなければ…、いつか、いつか…と思い続けて1ヶ月くらい?

結構放置してたかもしれない。

だけども昨日やっと、これをちゃんとくっつけてあげよう!と思い立ち、
瞬間接着剤で修復してあげました。

 

修復しようと思い立ったあと、ソボクな疑問が。

「なぜ私は、こんな簡単な作業を
ずっと放置していたんだろう?」

 

このキッチンスケールは、わたしのお気に入りなので、すぐにでも直せたはずなのです。

「なのに、なぜ私は、この作業をずっと放置していたんだろう?」

 

しばし考えて…

出てきた答えはこうでした。

 

「壊したのが自分じゃなかったから」

 

 

これ、夫が壊したんですよね…。

夫は、前にもいちど、わたしのマグカップを欠けさせたことがあり、その時は彼が直してくれたので、わたしは当然のように、彼が直してくれるものだと思っていたんですね。

 

だけど何日経っても首ちょんぱのまま。
とれた首が「いつ直してくれるんだー」とばかりに恨めしそうにこっちを見ている。

 

そうなんだよ。
「いつ直してくれるんだー」と恨めしく思っていたのは、ほかでもない私自身だったんだ。

 

 

今ならわかるけど、お気に入りのものが壊れて、それをいつも目にしているというエネルギーロス状態がずっと続くくらいなら、さっさと修理すればよかったんだよ。

だけどここに「誰が」修理するのか、という判断が入ってしまった。

「壊した人が直すべき」という、いわば“正論”。
あと「罪を償え」くらいのジャッジも入ってたと思う。

 

夫は「壊しちゃった。ごめん」と誤り、
私は「しょうがないね。いいよ」とゆるしたはずなのだ。

「当然修理してくれるハズ」というのは
勝手なこちら側の判断なのだった。

“自分がいちばん気分よく過ごすこと”を
再優先させるのが本質だとしたら、

「とにかくすぐ修理する」ことが
最も本質に沿った行動だったのではないか。

“自分がいちばん気分よく過ごすには”を脇に置いといて、
「壊した人が直すのが正しい」というジャッジを持ち込んだとたん、
本質が見えなくなるという事例を経験させてもらったのでした。

こんなふうに、「正しさ」は時々、しあわせの邪魔になることがあるんだな。
気づけてよかった。と思えた出来事でした。

 

余談ですが、くっついたスケール君を手に取って、
「むかしの瞬間接着剤は、プラスチックをくっつけるのがすごく苦手だったのに、最近の瞬間接着剤は、ずいぶん優秀になったものだなぁ…」と、ちょっと力を入れて触ってたら、

ポキッ Σ(・∀・;)

と再び折れて、あわてて再接着したことは、ここだけのお話です。
(思ったほど優秀じゃなかった(汗)…でも一晩おいたらちゃんとくっついたよ(=o=;)

大さじ小さじブラザーズと呼んでいる。今回折れたのは弟のほう。

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