自分をカテゴライズすると見えてくるもの・2 の続き

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こんにちは。さちこばです。
なぜイラストが岡ひろみなのかは、とりあえず置いといて、
前回の記事の続きいきます!

職場でB子さんに無視されてるA子さん。

“悪い”のはB子さんだけど、“責任”はA子さんにある?
でも実はA子さんにあるのは責任じゃなくて責任能力?

というところの説明です。

責任能力って、いったい何でしょう?

辞書を見てみましょう。

デジタル大辞泉の解説

せきにん‐のうりょく【責任能力】

失敗や損失に対し、きちんと責任を果たす能力。
民法上、行為の責任を弁識(理解)しうる能力。
刑法上、行為の是非を弁別(判断)し、またはそれに従って行動しうる能力。

今回のこの記事で考えたい「責任能力」は、

3の「行為の是非を弁別(判断)し、またはそれに従って行動しうる能力」のことを言っています。

英語で「責任」はresponsibility
語源は、responce(反応する)+ability(能力)です。

つまり責任=責任能力とは、

どう反応するか、自分で決める能力が自分にある、ということだと思います。

A子さん(過去のわたし) は、職場で、B子さんとの接触を避けることを選びました。

B子さんにやり返す、とか、会社を辞める、などの他の選択肢もあったのです。
でも、B子さんとの接触を避け、その場をやり過ごすという選択をわたしは選びました。

B子さんと話し合う機会を設けて、分かり合える道を探る、という選択もずっと頭にあったのですが、結局できなかったしなかったのです。
あの時は、自分をヘタレだと思っていたけど、今はそれでよかったと思ってます。


ここで言いたいのは、何を選んでもいいということです。

いくつかある選択肢のなかで、誰でもない自分が、その道を選んだのだときちんと思えることが、自分の軸となるのだとわたしは思います。

「誰かさん」のせいで、言いなりになるしかなかった。と思うとき、監督は「誰かさん」です。

だけど、今は仕方ないから「誰かさん」の望むわたしを演じておこう。と思うとき、監督は「自分」です。

似ているようで違うんです。

できなかったのではなくて、しなかったのです。

ひとがひとを傷つけるとき、根底には「他に選択肢がない」という思いがあります。

傷つける対象は、他人のこともあるし、自分自身のこともあります。

その時、「彼女の言いなりになる自分」を演じた“演者”は、いっしょうけんめいなので、心身は疲弊し、傷つくこともあるでしょう。
でも「内なる監督」は傷つきません。

傷ついた、と思うだけで、人は本当には傷つかないのかもしれません。( ´ー)


これは、かの有名なスポ根少女漫画「エースをねらえ!」に出てくるお蝶夫人のセリフです。

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ハイ。イラストの意味つながりましたw

昔はよくわからなかったこのセリフ。
今は、すこし意味がわかるような気がします。
わたし的には「エースをねらえ!」の作者である山本鈴美香さんは、かなりスピ系な人になってます(・ω・)

ひとには、たくさんの一面があります。
それをどの場面でどう使っていくか、選択するのは「内なる監督」です。

内なる監督に「責任能力」がある。というのは、自分のなかに選択する能力がある。ということです。

自分をカテゴライズした様々な一面の中で、自分が「いま」選んでいるのはこの一面である。でも、その気になれば、他の一面を選ぶこともできる。
そう思えると、自分を嫌いになることも少なくなるし、自分の世界がもっと広くなる気がするのです。

そして、願わくば。
いま誰かを傷つけたいと思っているひと、そして、自分を傷つけたいと思っているひとが、「他の選択肢もあるんだ」と気づくことができるなら、世界はもっと優しくなると思うのです。

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